記憶の旅 記憶の味
en attendant les vacances
ヴァカンスを待ちわびる味
お昼前に、Y君夫妻が遊びに来た。
ふたりはパリで知り合った日本人夫婦、Y君はフランス料理のコックをしていて、当 時、パリの三ツ星レストランで修業をしていた。何しろ、普段は朝早くから夜遅くまで働いているから忙しいのだけれど、お店が休みの月曜日などには、よく私 たち夫婦と4人で遊んだものだった。

Y君がやってくると、私たちは、待ってました、とばかりに、「何か作ってよ。」と甘えてみる。毎日、仕事で 料理を作っていて、休みの日くらい包丁を持ちたくないのではないか、などという心遣いは、私たちにはない。また、Y君も根っからの料理人で、呆れるくらい研究熱心だから、いつでも、どこでも新しい料理を模索している。「じゃあ、何か作りましょうか。」などと嬉しいことを言ってくれるのである。

私たちは、まず近くの朝市に出る。パリにはいたるところに朝市が出て、産地直送の野菜や肉や魚、そして乳製品などがふんだんに並べられている。それらを見て回るだけで結構な時間が過ぎてしまうが、とにかく、最初はぶらぶらと歩き回る。ああでもない、こうでもない、と、その日のメニューについて論じ合いたいところだが、なにしろY君はプロの料理人、私のような素人の出る幕ではない、すべて一任してある。

その日も、春の陽光を浴びながら、延々と続く出店の間を 抜けていった。
Y君は私と、Y君の奥さんは、私の妻と一緒になって、それぞれ興味のおもむくままに、ひとつひとつの店を覗いてゆく。私たちはというと、ワインのつまみに良さそうなものを物色するのが癖になっている。
 「これ、食べたことあります、脳みそ?」
Y君はそう言って、いつも何やら珍しい食材を教えてくれる。
「脳みそ?ない、ない。どうやって食べるの?」と尋ねると、「これは羊ですけどね。塩コショウして、小麦粉をまぶしてバターで炒めると、うまいですよ。豆腐みたいな歯触りでね。あ、これはセップ茸、これもソテーするだけで、うまい。」などと説明してくれるのだ。私は、ただただ、彼の講義を、感心しつつ、食い意地を張らして聞いているのだが、それが実に楽しい。

Y君の奥さんと妻とは、お菓子だとか、キッシュ、果物などに興味を示し、何やらいろいろと品定めをしている。とにかく甘いものには目がないのだ。人出の多い朝市で、私たちとの距離は、いつの間にか開いてしまう。
Y君は、その日、子羊の骨付きの肉の前で立ち止まった。
「これを焼いて、かぶりつきましょうか。おいしいですよ。」
メインはこれで決まりである。あとは、 細々した食材を買い入れたが、何となく物足りない。手が込んだものでなくていいから、何かつけ合わせに、お腹にたまるものがほしい気がしたのだ。ふと、ある店先に山のように盛られた真っ赤なトマトが目に入った。針でもちょこんと刺したら、中の果汁が飛び出てきそうなくらい張り切ったトマトである。Y君も、 このトマトに気づいたらしく、山盛りの中のひとつを手に取ると、手の中で吟味するようにしている。
 「ラタトゥイユにしましょうか。」「ラタトゥイユ?」
Y君は、トマトの隣に並べられていた、これまた身のつまった茄子や、泥のついた玉葱、大きなズッキーニ、そして、ピーマン、ぷっくりと膨れたにんにくなど を買い求めた。どれも、日本とは比べものにならないくらい安いから、遠慮せずにどっさりと買う。朝市からの帰りには両手に一杯の買い物袋を下げて、えっちらおっちら歩かなくてはならない。

アパートに戻った時にはもうお昼過ぎ、お腹はもうぺこぺこだ。冷たいビールを一気に飲み干して一息つくと、Y 君は早速キッチンに立った。妻と私が興味津々で見ている前で、Y君は、玉葱やピーマンを次々と炒め始める。にんにくとオリーブオイルの匂いが狭いキッチン を越え、隣の部屋にまで漂っている。その匂いに惹かれて、Y君の奥さんもやってきた。4人が狭いキッチンに集合してしまった。妻はY君に質問などを浴びせながら、私の隣で、彼の料理を見守っている。茄子、ズッキーニ、ピーマン、赤ピーマン、と炒めて鍋の中に放り込み、最後に、ざく切りのトマトを加えた。どちらかというと、ぶっきらぼうな料理だ。トマトの水分が出てきて、ぐつぐつと言い始める。このまま弱火で少し煮込むのだという。

 「そろそろ、ワインを開けましょうか。」
Y君はそう言って、しばし料理の手を休め、冷やしておいた白ワインのコルクを開けた。これだって高いワインなんかではない。Y君も、フランスに来た当時 は、安いワインなど飲まなかった。「100フラン以下のワインなんてワインじゃない。」とまで言い切って、いつも10フランとか20フラン程度のワインを飲んでいた私を馬鹿にしたものだが、そのうち、奥さんと暮らし始めて、家計を考えるようになったのだろう、私が買ってきた安いワインでも、「これ、結構い けますよね。」などと平気で言うようになった。

ラタトゥイユを煮込む間、私たちは4人で、中庭に出た。中庭というと聞こえはいいが、ひらたく言えばアパートの通路みたいなものだ。私たちの部屋はその中庭に面した一階にあったから、何かというとそこにテーブルを出して食事を楽しんだものである。パリの5月は一年で最もいい季節だ。暑くもなく寒くもない。からっとした陽気で、半袖で外に出るのが気持ちいい。ワインで乾杯し、買ってきたオリーブやちょっとしたつまみで、話を始める。アパートの住人のひとりが出てきて、「ボナペティ(ごゆっくり)!」などという言葉を残し、門の外へ消えてゆく。

Y君たちは、最近食事をしたレストランの話をしてくれる。
「あそこ、そんなにおいしくなかったよなあ。」Y君がそう言うと、奥さんも、「あれで、あの値段は高いよね!」などと追い打ちをかける。そんな話ばかり聞かされるものだから、三ツ星レストランなどに縁のない私たちも、すっかり耳年増みたいになってしまうのだ。妻も私も、行ったこともないレストランの名前やスペシャリテまでよく知っている。

白に続いて赤ワインのコルクを開ける頃、、Y君は再びキッチンへと戻り、今度は子羊を調理し始めた。岩塩をふって強火でさっと焼く、それが一番だ、という。ジュージューと、肉の焼ける香ばしい匂いがしたかと思うと、Y君がラタトゥイユと一緒に持ってきてくれた。
  「ラタトゥイユは南フランスの料理なんですよ。」と、Y君がまずラタトゥイユをとりわけてくれた。なるほど、そう言われれば、日本の煮込みにも似たこの食べ物、南フランスの古都アヴィニョンで口にした記憶がある。食べてみると、それぞれの野菜の旨味がトマトの甘さに包まれていて、ついつい食が進んでしま う。ワインと同じで、トマトも日照時間が長いほど糖分を増すのだろうから、南フランスのトマトは甘さがのっているに違いない。

5月ともなれば、 誰もがバカンスの話を始める。南フランス、ことにプロヴァンスは、パリっ子がヴァカンスとして考える理想の土地だという。それほど気候も自然も、そして人間 も豊かなのだ。パリの5月、ラタトゥイユを楽しみながら、私たちもパリっ子の真似をしてヴァカンスの話を始めた。今年はどこへ行こうか、などと話しているだ けで楽しい。

 「子羊も食べて下さいよ。」
 Y君が、子羊肉の乗った大皿を、そっと私の目の前に差し出した。