記憶の旅 記憶の味
été tranquille à Paris
パリの静かな夏
一年を通して華やかに思われがちなパリだけれど、少なくともこの時 期だけは静かになるという季節がある。それは夏、7月、8月のバカンス・シーズンだ。もちろん、この時期にパリにやってくる観光客は多いし、オペラ座だと かシャンゼリゼだとかいう観光地はいつにもまして賑やかになる。しかし、ひとたび、そこを離れれば、ゴーストタウンのように静まり返った街が広がっている。

一昔前よりは短くなったとはいえ、それでも数週間のバカンスをとることが当たり前のフランスである。誰もが、バカンスへと旅立ってしまうのだ。
しかし、そんな時期にわざわざ旅行をしなくてもよい、というのが、妻と私の意見だった。誰もが旅行に出かけるわけだから、バカンス地は当然どこも混雑しているし、交通運賃も高めに設定されてしまう。通路という通路がが人間で埋まり、トイレまで往復するだけで疲労困憊してしまう夏の夜行列車の経験もあるから、出来れば、それだけは避けたかった。
よくよく考えてみれば、私たちは学生の身分で、何しろ9月いっぱいは夏休みなのだから、何もわざわざ混雑する時期に動かなくてもよいのである。波が去っ てから、重い腰を上げればいい。それまでは、静かなパリでひっそりと息をひそめていればよいのだ。

パリの夏の朝は遅い。というより、私たちの朝は遅い。昼近くになってようやく目を覚ます。眠い目をこすりながらベッドを出ると、まず、友人から譲り受けた自慢のエスプレッソ・マシーンでコーヒーを入れるのだ。これは私の役目である。テレビをつけて、ニュースだとか、フレンチ・ポップスのビデオ・クリップ だとかをぼんやりと眺める。ニュースでは、コート・ダジュールあたりのバカンス地の混雑ぶりなどを伝えているのだけれど、今の私たちにしてみれば、まるで 絵空事のようなもので、どうもぴんとこない。 
 「ねえ、もう一杯入れてよ。」と妻が言う。思い切り濃く入れたエスプレッソは、それだけで、眠っていた頭をすっきりさせるのである。
 「そろそろ、買い物に行こうか。」
どちらからともなく、そう言って、アパートを出る。
 
パリの夏は、東京の夏に比べれば数段過ごしやすい。気温も30度を越えることは少なく、湿気もそれほどない。朝晩など、ちょっと肌寒いくらいに感じる。東京でいえば、梅雨に入る前の気候に近いかもしれない。

街はひっそりとしている。人の姿もまばらで、車の数も少ない。商店も半分は閉まっている。いつも買いにくるパン屋などもシャッターが降りていて、貼り紙 がしてある。
「・・月・・日まで夏期休暇。最寄りのパン屋は、・・街・・番地」
そして、簡単な地図が描いてある。つまり、パン屋ならパン屋のすべてが同時に休暇をとってしまっては困るので、付近の同業者同士話し合って、交代でヴァカンスをとるらしいのだ。肉屋、八百屋、魚屋、カフェ、すべて同じだ。

普段なら、買い物のコースはおおかた決まっている。こっちの八百屋を覗いて、あそこの肉屋を見て、あっちの魚屋へ行く、という具合にだ。しかし、夏休みともなると、そのコースが崩れてしまうことになる。顔馴染みではない店員とも相対することになる。そうなると、何となく決まるものも決まらなくなってしま うのがおかしい。
 「何にする・・・?」 「何にしようか・・・。」
そんな不毛な会話を何度も繰り返すだけで、今日の献立は一向に決まらない。

 「喉、乾いたな・・・。」
このへんで一軒だけ開いていている小さなカフェを見つけて、私が言うと、「ちょっと休もうか。」と妻が答える。まだ買い物もしていないのに、ひと休みも ないものだが、まあ、夏休み、のんびり構えていればいいのである。時間はたっぷりあるのだ。私たちは、テラスの席に腰を下ろす。自分のヴァカンスを目の前に しているせいか、やる気のなさそうなギャルソンが注文をとりにきた。

夏の暑い日、カフェに入って、私が飲むものというと決まっている。パスティスという、アニスから作る酒だ。水を注ぐと白濁して、ちょっと癖のある香りがするのでとっつきにくいが、一度気に入ると病みつきになる。気のおけないビストロなんかでは、アペリティフとしても飲まれている。妻は、シトロン・プレッ セ、つまりレモンを絞った生のジュースが気に入っているらしい。ひとつかふたつ、氷を浮かべ、水で割って飲む。

カフェで喉を潤しながら、私たちは、改めて今日の献立について検討する。肉屋も魚屋も八百屋も、一通りは覗いてみたから、何があるのかは大体頭に入っている。あとはよく考えるだけだ。
 「今日はちょっと暑いから、何か涼しげなものにしない?」
 「涼しげなものって何よ?」
 「いやあ、例えば、鶏の丸焼きとかさ・・・。」
 「鶏の丸焼きが涼しげなわけ?」
結局、鰯と海老、それからタコやイカなどを買うことにした。魚屋の店先に並ぶ魚も、夏の日差しを浴びてどことなくけだるそうだ。
さて、それから、せっかく魚を食べるんだから白ワインを買わなくちゃ、と、帰り道、いつものワイン屋に寄ってみたのだが、案の定、ここも夏休みだった。仕方なく、小さな食料品店に入り、1本300円ほどの安いワインを購入する。

部屋に戻ると、おもむろにキッチンに向かい、買ってきた魚や野菜を袋から取り出す。 「お腹空いたな・・・。」
私の、あくびまじりの訴えを聞いて、妻が料理を始めた。タコとイカを切ってバットに並べ、その上からオリーブオイルを注ぐ。この香り。マリネには、多少 の時間がかかるのは仕方がない。その合間に、妻が、マッシュルームを炒め始めた。これもオリーブオイル。とにかく、オリーブオイルはけちけちせず、どぼど ぼと湯水のごとく使うのがいい。その、黄色の液体からたちのぼる香りは、地中海の夏の陽光そのものだ。
私は、鰯を手開きしている妻に話しかけた。
 「ベルギーに行こうとか言っていたけど、やっぱり、また南へ行きたいね、スペインとか、ギリシャとか、イタリアとか。ああ、ポルトガルもいいかな。とにかく、オリーブオイルを使うところね。」
オリーブオイルの香りを嗅いでしまった私は、たまらず白ワインを開ける。まだ冷えていないけれどそれは仕方がない。マッシュルームをつまみつつ、妻のまわりをうろうろとし、そこまで近づいたバカンスの話を続けたのである。