フランスかぶれの手帖
Serge Gaisnbourg
セルジュ・ゲンズブール
1991年3月。
湾岸戦争が停戦となって数日。しかし、多国籍軍として戦争に参加していたフランスでは、日本では考えられないような緊張感が続いていた。
そんな朝、いつものようにテレビのニュースをつけて、私は自分の耳を疑った。
セルジュ・ゲンズブールが死んだのだ。
パリ・ヴェルヌイユ街の自宅で冷たくなっているところを発見されたのである。自宅の周辺は、夜半から、ラジオの第一報を聞いて集まってきた沢山のファンで埋め尽くされているという。

Serge Gainsbourg 
ロシア系ユダヤ人の息子として生まれ、画家を目指していたが挫折。クラブのピアノ弾きをしていたが、1959年に歌手としてデビューした。その後、フランス・ギャルの「夢見るシャンソン人形」や、フランソワーズ・アルディの「さよならを教えて」などのヒット曲も書く。
シャンソン、ジャズ、アフロ・ラテン、ロック、レゲエ、ファンク、と、常に時代の先端を行く音楽を取り入れ、カメレオンのようにスタイルを変化させてきたが、その根底に流れているのは、文学や美術への傾倒と、自分の醜い(本人の弁)外見へのコンプレックス。
「シャンソン(歌)なんて、マイナーな芸術さ。」
などと自嘲気味に語ったりもした。

ブリジット・バルドーとのデュエット曲「ジュ・テーム・モア・ノン・プリュ」が放送禁止となり、バチカンに、「悪魔だ」とキャンペーンを張られた。
どうせ税金に取られるのなら、と、生放送中に500フラン札に火をつけた。
テレビで共演したホイットニー・ヒューストンに、「I wanna fuck you」と言い放ち、一同を呆然とさせた。
国歌「ラ・マルセイエーズ」をレゲエで歌い、右翼から襲撃予告を受けた。
愛娘シャルロットと、近親相姦を匂わせる曲をデュエットし、物議をかもした。

とにかく、いつも何かをやらかす、挑発的であぶない男が、セルジュ・ゲンズブール。
しかし、私の考えでは、それらはすべてコンプレックスの裏返しであり、偽善者ならぬ「偽悪者」なのが彼。常にジターヌ(タバコ)と酒を放さず、無精髭を生やし、危ない目つきをして暴言を吐いたが、実際には、すべて計算づくの行動だった。「さかしまのダンディズム」とでも言うべきか。


フランスに住み始めてから、私もゲンズブールのファンになった。
CDプレーヤーなど持っていなかったから、カセットを買ってきては、安いラジカセで毎日聴いていた。テレビを手に入れてからは、ゲンズブールの出演する番組は欠かさずチェックした。テレビでは、意外と涙もろい一面も垣間見せていた。
ゲンズブールについて書かれた本もすべて買い求め、読んだ。
ゲンズブールの撮影した映画、写真集、書いた小説、なども忘れていけない。
前妻ジェーン・バーキンや娘シャルロット・ゲンズブールはもちろん、プロデュースをしたヴァネッサ・パラディだとか、イザベル・アジャーニあたりまで網羅しないと気がすまなくなった。

まさに、ゲンズブールは私のアイドルだったのだ。

そのゲンズブールが死んだ。61歳。心臓発作。
自宅前に集まるファンの気持ちが痛いほど良くわかる。

サン・ジェルマン・デ・プレのカフェで、ゲンズブールの最後の妻(というより愛人)バンブーを見かけたことがある。若い男と楽しそうに話していた。
実は、バンブーにも、ゲンズブールのプロデュースしたアルバムがあるのだが、とてもじゃないが聴けたものではない。ゲンズブールには、公私混同ともいうべき、家族への自画自賛的言動が多いが、これはさすがに、私でも辛い一枚である。シャルロットあたりまでなら大いに許すのだけど・・・。

日本にも、ゲンズブール・マニアは多い。タワー・レコードあたりに行けば、ゲンズブールのCDはほぼ全部揃っているし、フランス好きの人たちの間では今でも特別な存在なのだ。

ゲンズブールは、今、モンパルナス墓地に眠っている。