フランスかぶれの手帖
fragments sur Arcueil 1
サティとサドの街
パリの郊外、アルクイユという街に、数ヶ月だけ住んだことがある。
郊外といっても、RER(高速地下鉄)が通っていて、パリの中心地レ・アールまでほんの十数分といったところ。
住み始めてから気づいたのだが、実は、この街、かのサド侯爵が起こした「アルクイユ事件」の舞台だった。パリ市内で声をかけた女をこの街の家に軟禁した、というものであるが、詳しいことは、澁澤龍彦の「サド侯爵の生涯」でも参考にして欲しい。
その頃、私は、サドやその周辺のロマン・ノワールの作家たちの勉強を始めようとしていたので、まさに、偶然のなせる業。
サドの事件の舞台となったのはフォンテーヌ街で、そこから歩いて1〜2分の場所に、私のアパルトマンがあった。コーシー街30番地。その2軒先には、エリック・サティが死ぬまでの27年間を過ごしたアパルトマン、通称「4本煙突」がある。つまり、私は、サティのお隣さんだったというわけ。サティは、20世紀初頭を生きたフランス人作曲家。独特の静かなピアノ曲は、「ミニマル・アート」、つまり、表現しない芸術の先駆者とも言われている。

サティと私。
同時代であれば、回覧版でも回すような関係だったわけだ。
「ボンジュール、エリック、いい天気ですね、今日も作曲ですか。」
「うん、ジムノペディっていう曲を書いているよ。」
「精が出ますな。おっと、忘れるところだった、回覧版です。」
「おお、メルシー・ボークー。」
そんな会話くらい交わしていたかもしれない。

サティの生きた20世紀初頭には、サドは呪われた作家として、歴史の裏に隠蔽されていた。それを掘り起こしてきたのが、シュルレアリストの先駆者ともいうべきギョーム・アポリネールであり、旗手であったアンドレ・ブルトンたち。第一次大戦前後のことだが、本格的に取り上げられるようになったのは、サティが死んだ後のこと。今では、まともなフランス文学史の本には必ず登場するサドも、当時は知られた作家ではなかったのだ。
だから、サティが、サドの生涯について知らなかったとしても不思議ではない。距離にしておよそ数十メートルしか離れていない場所にありながら、この、18世紀と20世紀を代表すると言ってもよいふたりのアーティストは、お互いを知ることはおそらくなかったのだ。もちろん、18世紀のサドが、20世紀のサティを知ることは無理な話ではあるけれど・・・。

18世紀に、その情念と自由への意思を極限まで追求し、表現したサド。
20世紀に、表現や情念などという重苦しいものを放棄し、空気のような音楽を作ったサティ。
そうやって見ると、実に対照的なふたりではないか。

ご近所としては、ふたりの間を、何とかして取り持ってみたいとは思うのだが、やはり無理か。もしそれが実現したら、歴史的な快挙と言わざるを得ない。

その後、私はアルクイユのアパルトマンを出ることになった。パリ市内に格安の物件を見つけたからなのだが、私の後に住みたいという若い日本人女性が、通訳らしい年配の女性と大家さんと3人で部屋を見に来たことがある。
その若い女性はフランスに音楽を勉強しに来たピアニストだそうで、部屋にピアノを置きたい、という希望だった。なるほどリビングはかなり広かったから、ピアノくらいは置けそうだ。
通訳の女性は、本棚にあった私の本を見て、「サドですね!」と、目を輝かせて言った。

その後、その女性がその部屋に住むようになったのか、それはわからない。
それでも、よく考えてみると、あのピアニスト、あの通りにサティが住んでいたことを知っていたのだろうか?それを知っていて、あの部屋を借りようとしていたのだろうか?そして、サドですね!と言った通訳の女性、アルクイユ事件のことを知っていただろうか?

あれから15年以上が過ぎてしまったが、時々、あの時のピアニストが、今、どこかでサティを弾いている、そんな光景を思い浮かべてしまうのである。


澁澤龍彦「サド侯爵の生涯」中公文庫
秋山邦晴「エリック・サティ覚え書き」青土社