フランスかぶれの手帖
absinthe, liqueur interdite
禁断の酒 アブサント
夏になると、毎日でもパスティスを飲みたくなる。
パスティスというのは、アニス系のハーブの入ったリキュールだが、苦手な人も多いらしい。歯磨き粉の匂いがする、という人もいる。黄色や緑色がかった透明 の液体が、水を入れると白濁する。これは、水に反応したオイル成分が膜を張って乱反射するため。
水で薄め、氷を1個か2個入れて、窓際などに置くと、それだけで涼し気である。窓の外はプロヴァンスのラヴェンダー畑、というわけにはいかないのが残念至極。仕方ないので、わが町大久保の風景を見ながら飲んでいる。
確かに香りはきついが、飲んでみると、わずかな甘味も楽しむことが出来る。
フランスのカフェでは、ハンチングをかぶったようなおじさんがちびちびと飲んでいる。その姿が、いかにもフランス風で、私のようなフランスかぶれにはたまらない風景である。

気のおけないビストロなどに行くと、パスティスは食前酒としても飲まれる。最近は、日本のフランス料理屋でもパスティスを用意している店が増えたのが嬉し い。私は、たいてい、このパスティスを頼むことにしている。これで、気分は一気にフランスへ飛ぶ。

パスティスには数種類あって、一般的なのは、リカール、ペルノー、そして、51(サンカンテアン)など。このへんは、日本でも、大きな酒屋に行けば手に入るようだ。
ギリシャのウゾ、トルコのラキなども同じようなものと考えてよい。

ただ、このパスティス、語源を考えてゆくと、「偽物」とか、「代用品」などということになる。芸術などで「パスティーシュ」と言えば、贋作である。
しかし、何故、パスティスが「代用品」?

アブサンという酒がある。
フランス語ではアブサントといい、18世紀末に発明された蒸留酒で、苦蓬(ニガヨモギ)などから作られる。19世紀中葉になって、多くの芸術家が愛飲するようになった。
だから、文学や美術が好きな方なら、どこかで聞いたことがあるに違いない。

画家なら、例えば、ドガ、ロートレック、ゴッホ、ピカソ・・・。
ドガの、有名な「カフェにて、またはアブサン酒」(1876年)という絵。うらぶれたカフェの片隅に女と男が静かに腰をおろしていて、その前のテーブルに は白濁したアブサントが置かれている。当時流行のリアリズムを追求した、ちょっと暗い画風である。

文学者なら、例えば、ランボー、ボードレール、ヴェルレーヌ・・・。
ランボーには「渇きの喜劇」という詩がある。

 
来たれ、「酒」は大河となって海へと流れ/万波寄せたり!
 天来の「苦味剤」/滝つ瀬と山より来たる
 行かん、賢明なる行路の人よ/琅奸の円柱緑なす「アブサン」国へ・・・・・・

                              (堀口大學訳)

白濁する前のアブサントは淡い緑色。水を入れると白濁はするが、かすかに緑色が残っている。「琅奸の円柱緑なす・・・」と書くのはそのためだろう。

アブサントは、彼らの想像力を昂ぶらせる一種の麻薬であり、いわば、世紀末を象徴する酒だったのだ。彼らのような、アブサントに魅入られてしまった人々のことをアブサニストという。

呑んべえの野球選手を主人公にした、水島新司の漫画「あぶさん」、実は、この酒が名前の由来となっている。

しかし、一方で、アブサントはその毒性が指摘されていた。常飲すると、苦蓬に含まれる成分が神経系統に障害をもたらすことが認められ、20世紀になってと うとう販売中止になったのである。ゴッホが奇行に走ったのも、アブサントのせい、などというまことしやかな話も出たほどだ。
アブサントは、禁断の酒になった。

そこで登場するのが、「代用品」の酒、パスティスである。
風味はアブサントに近いが、苦蓬ではなく、アニス、スターアニス、リコリス、フェンネルなどを用いている。パスティスにプロヴァンス産が多いのは、このようなハーブが使われているからだ。
何年か前に、ピーター・メイルの「南仏プロヴァンスの12ヶ月」がベストセラーになった時、本の中に頻繁に登場するパスティスもブームになりかけたことが あって、酒屋によっては、大量に仕入れたらしい。実際、プロヴァンスの生活に憧れるような人たちが一度は買っていったが、結局、ちょっと試しただけで放棄 してしまうことが多かったそうだ。歯磨き粉の匂いがするというほどだから、たいていの日本人の舌には合わなかったのだろう。
しかし、一度好きになってしまうと、もう病みつきになる。私がそのいい例である。
ランボーやボードレールが愛したアブサントの代用品、などというだけで手を伸ばしてしまうミーハー気分もあるけれど。
そういえば、歌手のセルジュ・ゲンズブールもパスティスが好きで、薄汚いカフェで飲んでいる写真をどこかで見たことがある。きっと彼にも、19世紀の芸術家たちへの憧れがあったに違いない。何しろ、アブサントは、幻の、そして禁断の酒なのだから。


などと思って、アブサントを飲むことを諦めていたら、最近になってアブサントの生産が再開され、さらには、数年前から日本にも輸入され始めたことを知っ た。何でも、製造技術の向上により、苦蓬の危険成分を抑えることに成功し、基準をクリアしたアブサントはフランス国外への輸出も可能になったということら しい。製造販売禁止から100年、ようやく大手を振ってアブサントを飲めるようになった。
もちろん、私も、早速買い求め、毎日のように楽しんでいる。ボトルのラベルに書かれた「ABSINTHE」という文字を見るだけで嬉しくなってくる。

危険性のないアブサントなんて、という向きもあるかもしれないが、そこはそこ、過ぎ去りし19世紀の、デカダンな芸術家たちを気取って、不健康に飲んでみたいものである。