夜のカルチェ・ラタン

une nuit au Quartier latin
夕方、ホテルの部屋に戻ってひと休みしていたら、妻が、「ちょっと、サン・ミッシェルの本屋さんにでも行ってきたら・・・?」と言う。昼間も本屋は巡るのだが、どうしても、お菓子の本などを探すことが目的になってしまって、なかなか、自分の本を見て回る時間がない。

「本屋さん、閉まるの、7時半だったよね。その間に、夕飯を作っておくよ。」などと珍しい発言が続く。気が変わらないうちに行動に出た方がいいかもしれない。
「じゃあ、ちょっと行ってくるか。」
私は、そう言い残して、いそいそとホテルを出た。

ホテルから、サン・ミッシェル、つまり、カルチェ・ラタンの中心地までは、27番のバスで出るのが一番便利かもしれないが、歩いてもせいぜい15分くらいだから、私は歩く方が好きだ。
ゲ・リュサック街を上り、サン・ジャック街へ。

このサン・ジャック街は、パリで最も古い道とされている。中世のこと、スペインの聖地サンティアゴ・デ・ポステーラへの巡礼は、右岸のサン・ジャック塔が出発地点となっていた。そこで作られたのがサン・ジャック街。そこを通って、はるばるスペインまで向かったというわけだ。サンティアゴとは聖ヤコブのことであり、フランス語ではサン・ジャックとなる。

サン・ジャック街から延びる小さな短い通りのひとつが、ユルジュリーヌ街だ。ここにひっそりとたたずむ映画館「ステュディオ・デ・ジュルジュリーヌ」に私は通いつめ、小津安二郎の映画を二十本近く観た。この映画館は、1929年、シュルレアリスムの歴史的名作「アンダルシアの犬」が初めて公開された場所でもある。その時には、監督のルイス・ブニュエルによる講演も行われたそうだ。実際、当時、ここには、アンドレ・ブルトン、マン・レイ、フェルナン・レジェ、ルネ・クレール、ロベール・デスノスなど、そうそうたる芸術家たちが集う、前衛映画のメッカであったらしい。

サン・ジャック街をさらに進めば、ソルボンヌの裏側に出る。この界隈は、私の庭のようなもので、目をつぶってでも歩ける、はずだったのだが、さすがに、15年のブランクはちょっとばかり大きくて、時々、地図を取り出しては、確認したりしているのが情けない。

サン・ミッシェル街のふたつの大きな本屋、ジベール・ジュンヌと、ジョゼフ・ジベールをぶらぶらする。文学の棚を見て、美術や音楽の棚を見る。そして、パリに関する本。日本の漫画の仏訳が沢山置いてあることにもびっくりした。「Dr.コトー」だとか、「ブラック・ジャック」などが普通に並んでいる。

本当は、あれもほしい、これもほしい、ということはあるのだが、重い本は敬遠した。オスマンによる大改造以前のパリを写したマルヴィルの写真集も格安なものがあったのだが、これも、ひときわ重い。前回の旅行で、荷物の重量超過のおかげで大変な目に遭った事を思うと、ことを慎重に運ばざるを得ない。結局、実際に買ったのは、ヘミングウェイ「移動祝祭日」の仏訳本と、写真家ロベール・ドアノーの晩年のエッセイ集のみ。これは、出発前に読んだ、今橋映子氏の「〈パリ写真〉の世紀」で触れられていて印象深かったものだ。
それでも、目的もなく本棚から本棚へとぶらついていたら、学生だった15年前を思い出してきた。毎日、毎日、こうして、意味もなく、本屋をうろうろしていたものだ。

「幾年以来自分は巴里の書生町カルチェエラタンの生活を夢みていたであろう。」
という一節で始まるのは、永井荷風の「ふらんす物語」の一篇「おもかげ」である。

カルチェ・ラタンの夜について、荷風は、こうも書いている。

「午後もやがて暮近くなると、処々の学校や講堂から出てくる元気の可い書生連の散歩に、いつも往来の激しい大通は殊更賑かになり、門並に宿屋下宿屋の立連る裏通の窓々からは、稽古するヴィヨロンやピアノや歌の声が漏れ聞こえる。その下の種々の小売店には前垂がけの娘や女房の話。さて日は全く暮れ果てて、文科大学の堂宇ソルボンの大時計の音澄渡り、町は角々のカッフェエ、レストランの燈火と音楽に巴里ならでは見られぬ夜の活気を帯びてくると、歓楽を追う若人の腕にすがろうとて、夕化粧を凝した女の姿は街中到る処に人目を惹く・・・」

荷風がパリで過ごしたのは、1908年のこと、実に100年前のことだ。ところが、こうして日も暮れてしまうと、荷風の描くカルチェ・ラタンの風景は、今でも何も変わっていないような気さえしてくる。パリにとって、100年くらいの時間は、どうってことのないものなのかもしれない。

時計を見たら、そろそろ、閉店の7時半に近づいている。早めに切り上げて、外に出る。
ジベール・ジュンヌの裏の路地を抜けて、ギャランド街に入る。ここの映画館「ステュディオ・ギャランド」では、今も昔も、毎週末の深夜に、カルト・ムービーの元祖「ロッキー・ホラー・ショー」がかかっていて、私も、この映画館で10回ほど観ただろうか。この映画のせいで、かび臭い、床に米が散乱しているような映画館だったのだが、入り口付近を見る限りでは、改装されて、だいぶ、こざっぱりしたようだ。

本当なら、ここからサン・ジャック街を上がってゆくのが一番わかりやすい道筋なのだが、せっかくだから、人気のない路地を選んで入り込む。サン・ミッシェル広場付近は、夜遅くまで賑わっているものの、こうして、数分離れただけの路地は静まりかえっている。
ダント街からサン・ジェルマン街を横切り、テナール街へと入る。エコール街を横切って、ヴァレット街へ。ほとんど誰ともすれ違わない。昔、この路地を歩いた記憶はないのだが、もしかしたら、昼間と夜の印象が違うのかもしれない。誰もいない、冬の夜のパリの路地というのは、それだけで、どこか別の世界に紛れこんでしまったような気分にさせられる。淡い橙色に照らされた石畳が、昼間とは違う質感を持って目に飛び込んでくるのが面白い。この橙色の街灯は、石畳をくっきりと浮かび上がらせるために存在しているような気もする。こつ、こつ、と、靴の音まで響き渡って、よけいに石畳を意識せざるを得ないのだ。

やがて、パンテオンの裏側に出た。
前から、犬を散歩させている中年の男がやってきて、すれ違う。その時、パンテオンの鐘が広場に静かに鳴り響いた。

パンテオンを回り込むようにして、イルランデ街へ。ここを左に曲がれば、ムフタール街の入り口、コントレスカルプ広場である。「移動祝祭日」を書いたヘミングウェイは、この広場の裏側に住み、広場のカフェで長い時間を過ごしたという。

ユルム街に入る。ここには、エコール・ノルマル・シュペリウール、高等師範学校と呼ばれるエリート養成のための教育機関があり、ここを出るということは、東大卒とかその程度では片づけられなくて、政治家や大学教授などのポストが用意されている、と考えてよい。
実は、私もここに入ったことがある。といっても、もちろん、この学校で学んだということではなくて、校舎に何度か入ったことがあるということだ。パリ第8大学というところで論文を指導してくれていたベアトリス・ディディエ教授が、途中で、高等師範学校の教授になった。それでも、教授の担当は続いていて、指導を仰いだり、口頭試問を受けたりするためには、教授の研究室のある高等師範学校へ行かなければならない、というわけだ。それだけのことである。

ソルボンヌ、つまり、パリ第4大学のヴェルシーニ教授のゼミを受けていた頃、クラスメイトのディディエが、ある日、私に言った。
「知ってた?このゼミにいる、二コルってやつ、あいつ、エコール・ノルマルの学生なんだぜ。」
「へえ、そうなんだ・・・。」
「ほら、ちょっと、お高くとまっているだろ?ぼくたちとは、違うんだよ。」
高等師範学校の学生でありながら、このゼミの内容に興味があって来ている、ということらしい。ニコルは、今頃、どこかで文学教授にでもなっているのだろうか、そんなことをふと思い出しながら、石畳を歩く。

高等師範学校の校門から、数人の男女の学生が出てきた。
「ぼくは、こっちから、メトロに乗るよ。」
「じゃあ、また、明日!」
などと言いながら、ばらばらと散ってゆく。私も、彼らの一員になったつもりで、ユルム街を下っていった。
ユルム街の突き当たりが、ゲ・リュサック街とクロード・ベルナール街の境目だ。ここを左に行けば、アルバレット街。私たちの泊まっているホテルがある。

8時前に、私は部屋に戻った。
いい匂いがする。
妻が、ドゥニさんのロール・キャベツを用意して待っていた。

■ Studio des Ursulines
     10, rue des Ursulines 75005 Paris
■ 
Studio Galande
    42, rue Galande 75005 Paris
■ 「
ふらんす物語」 永井荷風 (新潮文庫)
■ 「
〈パリ写真〉の世紀」 今橋映子 (白水社)
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