中華街と北京ダック

quartier chinois et canard laqué
27番のバスに乗って、13区の中華街まで行った。

中華街のはずれ、トルビアック街に、妻と2年ほど住んでいたので、とても懐かしい界隈だ。当時は、アパートの目の前にバス停があったのに、ちょっとだけ遠くに移動してしまったようだ。

中華街の中心は、「TANG FRERE(陳氏兄弟商場)」と呼ばれるスーパーマーケット。大きな店内はいつでも大賑わいで、中国人だけではなく、ベトナム人、タイ人、韓国人、日本人などのアジア系、そして、もちろん、フランス人の客でごった返している。

パリに行く前に「パリ二十区の素顔」という本を読んでいたら、この、TANG FREREの社長、ブンミー・ラタナヴァン氏が出ていて驚いた。7年前の出版時に47歳というから、今年まだ54歳だと知ってもっと驚いた。伝説的な人だというような思い込みがあって、もっともっと年を取った老商人みたいな人を想像していたのだ。ラオス生まれの華僑だということだが、一族で今の場所に店を出したのが81年、つまり、私がフランスに渡ったわずか6年前のことである。その間に、押しも押されぬ、フランス一の中華食料品スーパーを作り上げ、今では、パリ内外に5つの店舗と、3つのレストランを経営しているというのだから、すごいものだと思う。
私たちも、もちろん、いつも、このスーパーを利用していた。
このスーパーの地下には、中国人だけが知っている地下マルシェがある、という噂を友人から聞いたことがあるが、これはもちろん、都市伝説の類だろう。今ではすっかり、パリの一部と化している中華街も、その昔は、何かと軋轢や偏見があったというから、その時の名残りなのかもしれない。

この日も、一通り、店などを覗いて歩く。
昼食には、PHOを食べようと思っていたのだが、つい、北京ダックの店の横を通り過ぎたら、どうしても、北京ダックが食べたくなってしまった。

北京ダックの店。
パリを食べ尽くせ!」でも、「メザミと私のヴォヤージュ・ヴォヤージュ!」でも、懲りずに食べに行っている「國都大酒楼」がそれである。
この店のオープンは、1990年の夏だ。何故そんなことを覚えているのかというと、その頃、私の母が、パリまでやってきた。日頃、私たちがお世話になっていた韓国人の若夫婦にご馳走がしたい、という話になったのだが、その時、中華街の片隅にオープンしたばかりの店がここで、ちょっと行ってみようか、となった。合計5人での会食である。
その時、この「北京ダック」を食べて、そのおいしさにびっくりし、それからというもの、何かあると、ここへ食べに来るのを楽しみにしていた。本場・北京には行ったことがないが、ここの北京ダックが世界一に違いない、と、勝手に決めている。

ところが、どうも、妻の調子が万全ではない。お腹が空いていないのだ。
「食べられる?」と尋ねても、
「う〜ん、無理をすれば食べられないことはない・・・。」
という、心もとない返事しか返ってこない。せっかく、それなりのお金を払って食べるのだし、第一、それでは、北京ダックにも顔向けが出来ない。
「どうしよう。」
「どうする?」
「やっぱり、お昼はあきらめよう。お昼は、PHOにしておこう。」
私にしては珍しく、きっぱりと意思表示をし、私たちは、PHOの店に入った。
ここも有名な店「HAWAI」である。15年ぶりであるが、なにひとつ変わっていない。

ベトナム麺PHOを教えてくれたのは、妻の友人のベトナム人バンファン君だ。クリスマスの日に、何故か、彼とベトナム料理屋で過ごしたこともある。酔った彼は、ベトナム脱出時の武勇伝を話してくれた。ただ、訛りがきつくて、話の半分も理解できない。でも、それは、もしかしたら、バンファン君も同じだったかもしれない。それでも何となく会話は成立してしまうのだから面白い。

PHOを食べ終わって、外に出る。
「北京ダック、よく我慢できたね。」
と、妻が感心したように言う。
「万全な状態で食べたいからね。」
「じゃあ、夜になって、お腹がすいていたら、また、ここに来ようよ。」
「え、北京ダック・・?」
「そう。」
妻はそう言ってくれたが、その時は、まさか、本当に、夜にも再び中華街に来ることになるとは思わなかった。

その時、私はあるものを発見した。
「あ、ベトナム・サンドウィッチだ。あれを買おう!」
「え、食べられるの?」
何しろ、私は、お昼でも北京ダックを食べられるだけの状態にあったわけだから、PHOだけで満足できるはずもない。北京ダックからPHOを引いた分の余裕があるのである。
ベトナム・サンドウィッチ。ここに住んでいた当時も、よく、これでお昼にしていたものだ。店の外から作っている様子が見られるのだが、適当な長さに切ったバゲットを山積みにして、おねえさんたちが作業している。
ベトナムはフランス領だったことがあるから、このような、折衷的な食べ物が生まれたのだろうと思う。

いざ、買って食べていると、案の定、妻もつまみ食いしている。野菜、香菜、そして、叉焼。懐かしい味だ。


さて、午後を過ごした後、夕方に一度ホテルに戻った私たちは、夕食をどうするかについて話し合った。実は、これが、パリ最後の夕食となる。明日、私たちは、パリを発つのである。夕食は、ほとんど部屋でとっていたものの、最後の夜だけは、どこかで食べるつもりでいたのだが、それは当然、ビストロになるのではないか、という漠然とした思いがあったのだ。ところが、昼間、北京ダックという候補を持ってきてしまったではないか。

「・・・行くか。」
「・・・行きますか。」
意を決し、私たちは、再び中華街へと向かったのである。

目指す店は、もちろん、「国都大酒楼」
私たちが言う北京ダックというものは、ここでは、「canard laqué à la pékinoise」と呼ばれるセットのことだ。鴨の、皮をそいだものがいわゆる「北京ダック」となり、中身の肉を使ったスープと焼きそばがついてくる。3点セットである。これで2人分、まず、普通なら、お腹いっぱいとなるはずだ。昔は、この3点に加えて、2、3品、前菜みたいなものまで注文していたものだけれど、さすがに、もうそのような暴挙は出来ない。

以前、イル・プルー・シュル・ラ・セーヌの研修旅行でフランスに来た妻は、パリで、友人たちとこの店に来たらしい。そして、食べきれなかった焼きそばをホテルまで持ち帰り、弓田シェフと、京都の「CITRON」のオーナー・パティシエ、山本さんに差し入れをしたという話を聞いた。山本さんは、これで焼きそばに目覚めてしまったという。

パリでは、この店以外でも、もちろん、北京ダックを食べさせてくれるところはある。しかし、ほとんどは、皮だけをそいだような本格的なものではないようだ。
鴨一羽を運んできて、テーブルのすぐ横で、おじさんが切り分けてくれる。その華麗な鴨さばきをじっと見つめる私たち。待ちきれない。
薄餅に、ネギと鴨の皮、そして、甜麺醤をつけて巻き、一気に頬張る。
おいしくないわけがない。
この店に来るのは、今夜で何度目なのだろう。店の内装も、空気も、すべて当時のままである。中華料理だが、飲むのは、もちろん、ワイン。言っておくが、昔も、今も、テーブルワインである。
「しかし、パリ最後の夜だっていうのに、やっぱり、北京ダックか・・・。」
「まあ、それも、移動祝祭日ってことで・・・。」
と、何だかわからない納得をしながら、私たちは北京ダックを平らげた。スープも焼きそばも、もちろん、完食である。

外に出ると、夜の中華街は賑やかだ。
当時なら、店からほんの数分歩けば自分たちのアパートということになるが、この日は、もちろん、メトロの駅に向かった。それだけが当時と違う。

パリ最後の夜に北京ダック。

そういえば、92年に、日本に帰国するその前日、私たちは、アパートの掃除を手伝ってくれたオブジェ作家のWさんと、もうひとつの中華街ベルヴィルの、飲茶の店で夕食を取った。パリ最後の夜に中華料理。
そして、帰り道、私たちを車に乗せたWさんは、一方通行の通りを猛スピードで逆走するではないか。
「こういう時に、警官に見つかったりするんですよね。」などと話していたら、果たして、本当に、道の先には警官がいたのである。
「表へ出なさい。」
私たちは、車の外に出た。Wさん、危機一髪である。しかし、それを救ったのは、当時、妊娠8ヶ月だった妻だった。
「おい、彼女、妊娠しているぞ。」
妻のお腹を見て、警官のひとりが言った。
ここだ、私は、Wさんを救うべく、警官に話しかけた。
「そう、そうなんです。妻は妊娠していて、で、明日、日本に帰国するんです。今夜は、パリ最後の夜なので、こうして、友人と食事をして、その帰りなんです・・・。」
警官は、ちょっと考えた後、「そうですか、わかりました。気をつけてお帰りなさい。ボン・ヴォヤージュ!」
無罪放免、私たちは、再び、夜のパリの街に滑り出した。

パリ最後の夜に中華料理。

進歩のないふたりであるということを、再確認した。

■ 「パリ二十区の素顔」 浅野素女 (集英社新書)
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Asiapalace (國都大酒楼)
    
Centre commercial Olympiades (Oslo)
      44, avenue d'Ivry, 22, rue du Disque 75013 Pairs
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