パリの同窓会

avec nos camarades
ダンフェール・ロシュロー駅で乗り換えて、椅子に腰を下ろした途端、車内アナウンスがあった。
「次のムートン・デュヴェルネ駅は工事のため閉鎖されています。その次のアレジア駅で降車してください。」
あ、と思ったが、ドアが閉まって、電車はもう走り出していた。

「何だ、それなら、ダンフェール・ロシュローから歩いたって良かったのに・・・。」
「Nさんも、何だって、そんなところにしたんだろ・・・?」
「ま、Nさんだからね・・・。」
私たちは、人気のないメトロの中で、Nさんに恨みをぶつけた。

この夜、Nさん親子と会食をすることになり、Nさんが選んでくれたビストロに向かっていた。場所は、15区の、ムートン・デュヴェルネである。

Nさんは、私と同じ頃にフランスに渡り、そのまま住み続けている。役者をしていて、テアトル・デュ・ソレイユ(太陽劇団)だとか、ピーター・ブルックなどの舞台、ベトナムとフランスの合作映画でも主演をしたし、「グリーナウェイの枕草子」や、ジャン・レノと広末涼子が共演したことで話題になった「WASABI」でも、ジャン・レノに殴られる入国審査官の役を熱演している。最近も、フランスで、CMなどにも出演しているということだ。

そして、もうひとり、Yさんも来てくれることになった。

Yさんは、画家。滞仏歴はNさん以上にもなって、すでに25年ほど。パリの北郊外、リュザルシュという小さな町に、やはり画家の奥さんと、娘さんと住んでいる。毎年、夏になると帰国し、その時は、決まって池袋で一杯やることにしている。昨年は、我が家の部屋の壁の塗り替えをしてくれた。何しろ、リュザルシュでは家を一軒買い、自分でお風呂をつけたり、階段を作ったりしているので、そのくらいお茶の子さいさいなのである。

淋しい路地にたたずむビストロ「les fils de la ferme」に入ると、もう、Nさんの奥さんのK子さんが待っていた。マドレーヌ広場近くのお花屋さんで働いていて、実は、その日の昼間、遊びに行ったばかりだ。今日も、仕事の帰りにここまで来てくれた。やがて、Nさんが、娘さんのHちゃんを連れて登場。3人に会うのは3年ぶりくらいだ。
最後に、店の入り口にYさんの姿が現れた。年季の入ったコートがYさんらしい。いつだったか、知人の個展で会った時、妻の友人のイヴァンヌが、「刑事コロンボみたい・・・。」とつぶやいていたものだ。

「いやあ、久しぶりやな〜。元気でしたか?」
さすがに役者である。癖のあるNさんの関西弁が朗々とビストロ中に響き渡る。
毎日、アトリエで1本、そして、眠る前に1本、と、合計2本のワインを飲むというYさん、ワインを飲むピッチが早い。数年前、池袋で飲んだ時は、翌日、電話がかかってきて、「加藤さん、ぼく、眼鏡、どこまでつけていた・・・?」と質問された。意味がわからず訊き返すと、家に帰ってみたら眼鏡をしていなかったのだという。どこかで落としたらしい。それから、私は、Yさんと飲む時には、時々、Yさんの顔面における眼鏡の有無を確認することにしている。

「H、これ、何て書いてある?」
Nさんが、メニューの書かれた黒板を指差しながら尋ねると、Hちゃんが、フランス語で、スラスラと読んでくれる。さすが、フランス生まれのバイリンガル。小学生ながら、なかなか頼りになる。
「テレビを見ていても、わからないことがあったら、Hに訊くんですよ。」とK子さん。フランスに住んですでに20年近くたって、仕事もしているくらいだから、言葉には不自由はしないのだろうが、やはり、ネイティヴではない辛さがある。その点、フランスで生まれ、地元の小学校に通う娘さんの存在は、何とも大きいようだ。
それは、Yさんのところも同じで、Yさんの娘さんは、もう中学生。パリ市内の学校まで通っている。私たちの娘と同い年、何年か前には、ふたりで、Yさんに連れられて豊島園に遊びに行ったこともある。

「最近、日本はどうですか?安部晋三さんはどんなもんや?」などとNさんが言っていたら、Hちゃんが、すかさず、「Abbé Pierre(アベ・ピエール)!」と叫んだ。Abbé Pièrre(ピエール神父)とは、ちょうど、私たちがパリに着く前日に亡くなった慈善活動家で、フランスで最も愛された人。連日、テレビのニュース番組では、ノートルダム寺院での国葬の情報などをさかんに流していたものだ。安部とアベ。Hちゃんの言葉に、一同、大笑い。

「だけど、こうして、みんなで、パリで会うっていうのも久しぶりで、何だかおかしな感じだね。」
とYさんが言う。

あの頃は、とにかく、よく集まって、馬鹿みたいにワインを飲んで、議論をしたり、大げんかをしたり、誰かの個展の手伝いをしたり、何故か腕相撲大会をしたり、と、わいわいやっていたものだ。他には、アヴァンギャルドな作風で常に物議をかもしていたオブジェ作家Wさんや、今では芸大の先生になってしまったTさんもいた。彼らとは、みな、当時、パリ市内から郊外へ移転した日本人学校の、送迎バスの付き添い、というアルバイトで知り合った。お互い、おかしなやつだな、と思って、警戒していたのが、いつの間にか仲良くなっていたのだ。年齢はまちまちだが、同級生みたいなものだ。

「ワイン、もう1本、いきましょか?同じやつでええやろ?」
Nさんがそう言うと、Yさんが口をはさむ。
「いや、加藤さん、せっかくパリまで来たんだから、加藤さんが飲みたいやつを飲ませてやってよ。」
「あ、それもそやな、加藤さん、何にしますですか?」
「じゃあ、コート・デュ・ローヌで。」
私は、つい、いつもおなじみの安ワインを頼んでしまった。習性というやつであるが、こういうビストロには、これくらいのワインが似合っている。
新しく開けたワインを一口飲んだNさんは、
「お、c'est pas mal(セ・パ・マル)!」(悪くないな)などと、またよく響き渡る声で言う。
Nさんは我が家に居候をしていたことがある。その時も、この声で、台詞読みの練習を延々とやり続けるので、閉口したことを覚えている。

「私、あの頃が一番楽しかったような気もするんですよねえ・・・。パリも何だか、変わっちゃったし・・・。」
と、K子さんが言うと、
「うん、楽しかったよねえ、もう、15年以上たつんだよねえ。」
と、妻が答える。
私たちは、13区の中華街のはずれ、トルビアックのアパートを出て、11区のバスティーユにほど近いあたりのアパートに移った。実は、ここは、Wさんのアトリエだった場所だ。そして、私たちの後、トルビアックのアパートには、Nさん夫妻が入ったのである。そして、Hちゃんが生まれるの機に、Nさんたちは、パリの郊外ムードンに引っ越した。

Nさんのところは数年あとだったが、Tさん、Yさん、そして、我が家、と、ほとんど同時期に子供が生まれて、それをきっかけに、帰国したり、また、活動の場を他の国に移したり、ということになった。そして、今でも残っているのが、Nさん一家、Yさん一家、というわけだ。しかし、パリにはもう誰もいない。

大貫妙子に、「若き日の望楼」という曲がある。今でも、聴くたびに、この頃を思い出してしまうのだ。そう、みんな、若かった。

あっという間の3時間だった。
「じゃあ、そろそろ、お開きにしますか。加藤さんたちは、どうやって帰るの?」
「ダンフェールまで行って、そこから6番線でプラス・ディタリ、あとは7番線。」
「じゃあ、ぼくと一緒だ。ぼくもプラス・ディタリまで行って、10番線に乗るから。」
私たちはYさんと一緒に帰ることになった。

「じゃあ、また、会いましょう!」
「お元気で!」
Nさんたちは、駅前でタクシーを拾い、モンパルナス駅まで行くという。そこから、郊外へ向かう列車に乗る。

Yさんと私たちは、暗い  街を、ダンフェール・ロシュローまで歩き、そこで、メトロに乗った。

「あ、Yさん、これ、違うよ。」
最初に、乗り間違いに気がついたのは私だ。
「あ、そうだった?」
「もう、在仏25年のYさんを信用してついてきたのに・・・!」
「そんなこと言わないでよ、ぼくだってよくわからないんだからさ・・・!」
Yさんは、独特の投げやりな態度でそう答える。20年前から何も変わっていない。

私たちは、モンパルナス・ビアンヴニュで降りて、とてつもなく長い構内を歩いて、本来乗るべき6番線までたどりついた。
「それじゃ、また夏に!池袋で!」
「うん、元気でね。」
Yさんと握手をして、私たちは別れた。

■ les fils de la ferme
     5, rue Mouton-Duvernet  tél 01.45.39.39.61

     日曜日夜・月曜日休み
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